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文の文

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6・逢坂 剛さん

有楽町で逢いました・6

逢坂 剛さん

リチャード・ドレイファスばりの体型を
砂色のスーツに包んで現れた逢坂さんは「私と神保町」という演題で話された。
濃い飴色のやや太目の縁の眼鏡の奥のよく動く瞳を
会場のあちこち満遍なく滑らせながら、さて、なにを話されたのだったろう。
とてもとても面白くて、くすくす笑ったという記憶はあるのだが、
なにがどのように面白かったのかと思い出そうとして
どうにもおぼつかなくて頭を捻っている。

高校時代に学校で逢坂さんの講演会があったという息子に
そのおりはどんな話だったかと聞いてみると
「うーん、『第三志望の人生』とかいうんだったと思う」と答える。
おおー、息子よ、さすがだ。
何年も前のことをよく覚えていたねえ。
かあさんは二ヶ月前のこともうまく思い出せない。

そうそう、そういえばそうだった。
なにしろ本が好きで神保町の古本街に入り浸って
本を読み漁っているうちに
学校も就職も第三志望ののところへはいることとなってしまったが
その第三志望で入った学校も会社も神保町に近くて
とても幸いだったとのことだった。
中央大学卒で博報堂に入社することが第三志望というのも
かあさんにはなんだか贅沢であるような気もするのだが。

なめらかな語りを聞きながら
ああ、これはプレゼンのうまさか、と思い
このかたのひとあたりのよさはプロフェッショナルな鍛えだのだ納得した。
サラリーマンと小説家の二束の草鞋を数年前まで履き続けてきたそうだ。
辞めた理由のひとつに社屋の移転があり
神保町を離れるのがいやだったからだというから
筋金入りの神保町フリークである。
神保町のカレーがなかなかにおいしいのだと力説されていた記憶がある。
なぜ神保町でカレーライスが好まれるかというと
買ってきた古本を読みながら片手で食べられるからだとか。
なるほど、である。

息子が「そういえば、逢坂剛は
職業作家が食っていくのがいかにたいへんか、
くわしく数字を挙げて言ってたよ」と言う。
たいへんだから二束の草鞋なんだろうなあ。
だからね、息子よ、それはたいへんなんですよ。

「作家には二種類あります」と逢坂さんは言った。
「宮部みゆきとそれ以外の作家です」
売れてる作家とそうでない作家の落差は
まことに大きいのだということですな。
「宮部みゆきはあんなに稼いでいるのに
車に乗らないんです。電車にのってます」
宮部さんは車酔いするかららしいが
あまりに儲かるとその使い道もこんなふうに詮索されてしまうのである。

応募から選に入って作家として歩み始めた逢坂氏であるが
長い間書き溜めていた千数百枚に及ぶ小説は
「これはちょっと・・・、ほかはありませんか」
とそれを読んだ編集者に難色を示されたのだという。
その千数百枚が日の目を見たのは
三人目の編集者との出会いだったそうだ。
ただし、題名を直されたのだが。
で、その小説が直木賞を取ることになるのだから人生はわからない。

そう、息子よ、人生はわからんものなんですよ。
人生の設計図がどんなふうに変わっていくかなんて
だれにもわからないのだけれど
自分が好きなもの、自分が納得できる道ってのを
持っているのがしあわせなんじゃないかなあ。

とはいえ、かあさんは安心もしたいです。

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